テレビジョンの歴史

画像伝送の始まり

1837年モールス符号により文字の伝送が可能になると、次は画像の伝送を...と、1843年イギリスの時計技師ベインが図形の上を線状に走査(スキャン)し、走査位置を次々に移動することによって元の図形を再現する方法が今のファックスやテレビの原理となっていいます。1873年にはイギリスでテレビの研究が始まりました。

1883年ドイツ人ニプコーは多数の小穴が規則正しく配列した円板をモーターで回転させて非接触で画像を走査する方法を考案し、光の明るさを電子量に変える光電管(1893年)と、ブラウン管(1897年)を発明しました。1925年イギリス人ペアードのテレビは送受信共ニプコー円板による機械式でした。翌26年には高柳健二郎(日本テレビ界の父)は受像にブラウン管を使って成功しています。(世界初)

ベインの振り子式画像伝送装置.png

ベインの振り子式画像伝送装置

ニプコー円板の動作原理(出典:テレビ放送の歴史).png
ニプコー円板の動作原理(出典:テレビ放送の歴史)

ペアードの機械式テレビ.png
ペアードの機械式テレビ

1933年アメリカ RCA社のツウォルキン(ロシア人)によって実用できる撮影管アイコノスコープが完成。先のブラウン管にあわせ、送受信とも電子化され現在のテレビ技術の原型が確立しました。

テレビは画面を色付きの点の集合として走査線にそって1ヶずつの点(画素=ピクセル) を読み取り、1秒間に60回画面を点として撮っています。
(写真のフィルムは全画面を同時に読んでいるので原理は違います)

高柳のニプコー円板とブラウン管によるテレビ(出典:テレビ放送の歴史).png
高柳のニプコー円板とブラウン管によるテレビ(出典:テレビ放送の歴史)

走査方法.png
このように1から順に点を読み取り、1行ずつ下にずれていきます。

テレビによる画素数の違い(解像度の違い、きめ細かさ)

名称 ピクセル数 画素数
1K(ハイビジョンテレビ) 横:1366ピクセル/縦:768ピクセル 約100万画素
2K(フルハイビジョンテレビ) 横:1920ピクセル/縦:1080ピクセル 約200万画素
4Kテレビ 横:3840ピクセル/縦:2160ピクセル 約800万画素
8Kテレビ 横:7680ピクセル/縦:4320ピクセル 約3300万画素

同じ画面サイズなら画素数が多いほどきめ細かい画像になります。画面を大きくするのは迫力が表現出来るからです。

テレビ放送の開始

海外

  • ヒトラードイツは1935年国威発揚の為に翌年のベルリンオリンピックのテレビ中継目的で放送開始しました
  • イギリスBBC放送が1936年本放送を開始するが、大戦で中断
  • アメリカは1939年試験放送をスタートそのまま1941年から本放送に移行して放送を続けます

国内

  • 1940年(昭和15年)の東京オリンピックの中継目的で開発を続けてきましたがオリンピック中止で自然消滅
  • 1953年(昭和28年)NHKに続いて日本テレビが放送を開始。国産第一号の14型テレビ(シャープ製)はサラリーマンの年収と同額の175,000円でした

国産第1号テレビ(出典:シャープ).jpg

国産第1号テレビ(出典:シャープ)

テレビの普及

街頭テレビの時代

テレビの値段が高すぎて普及しないため、スポンサー料に直結する視聴率向上に迫られた日本テレビは、人の集まる駅前などに街頭テレビを設置。プロレス・大相撲などの中継に人々は殺到しました。
昭和33年度の普及率10%も大半は商店の人集め用で、少し余裕のある人はテレビを観るためにソバ屋に行きました。

街頭テレビに群がる人々(出典:郵政博物館).jpg

街頭テレビに群がる人々(出典:郵政博物館)

ミッチーブーム

1958年(昭和33年)当時民間人の正田美智子様と明仁親王(当時)の婚約が発表されると「ミッチーブーム」が日本を席巻。
翌年のご成婚パレードを観ようと人々はまだ高価だったテレビを競って購入し、普及率は一気に25%にまで上昇しました。
その後の高度経済成長と東京オリンピック開催により1965年には普及率90%とテレビは全国に行き届きます。

ご成婚パレード(出典:講談社).jpg

ご成婚パレード(出典:講談社)

カラーテレビの時代

カラーテレビの開発

1928年イギリスのペアードが25年の白黒に続き3重のニプコー円板でカラー化を試しています。
ブラウン管方式は1953年に米国規格が統一され、1960年日本も採用しました。(西欧・ロシアは別規格)

放送開始と普及

1960年(昭和35年)NHKがカラー放送を開始しましたが、受像機が50万円と車より高く、1965年までの普及率はほぼ0%、翌66年で0.3%で、1964年の東京オリンピックのカラー放送は街頭テレビで見るものでした。
当時カラーテレビはカー・クーラーの3Cで「新三種の神器」と呼ばれ持っていることはステータスでした。
1975年(昭和50年)には普及率90%でテレビと言えばカラーのことでした。

日本初のカラーテレビ受像機(出典:東芝未来科学館).jpg

日本初のカラーテレビ受像機(出典:東芝未来科学館)

高精細度テレビ放送(HDTV放送)

開発目的

既存テレビの画質改良を目的に1964年NHKで開発がスタート、解像度を縦・横とも2倍以上とし画面のアスペクト比も4:3→16:9と人間の視野に近い。
画面規格に1080i・1080p・720pの3通りあるが、720pは解像度で劣ります。

SDTVとHDTVの比較(出典:Wikipedia).png

ハイビジョンの普及

1994年の実用化試験放送(実際は本放送)がスタートするが、受像機が高額なため普及しませんでした。
しかし、薄型テレビの登場と価格低下に合わせ、地上波のアナログからデジタル移行によって買換需要が発生し、2005年~2011年の間に一気に普及しました。※カタログ表記にHD(1K)・フルHD(2K)とあるが本来のハイビジョンはフルHD(2K)だから購入時に注意が必要です。

4K・8Kテレビジョン

現行ハイビジョンの4倍(4K)・8倍(8K)の画素数があるため65型(4K)・85型(8K)の大画面でもハイビジョン(2K)と同じ画質で観ることができます。(図参照)

その他の色の範囲・階調・輝度・動画のちらつき等画質の面で圧倒的に改善されます。
音響も前3後2の5.1ch立体音響も可能で、今までのテレビの概念を変える劇場用フィルム映画に匹敵する臨場感を表現します。

同じ2K・4Kテレビなら映像のきめ細かさは面積÷画素数で決まります。
画面の小さい方が画質は上です。

ハイビジョン比較図(出典:総務省).png

ハイビジョン比較図(出典:総務省)

4K・8Kの受信方法(地上波では不可)

BSアンテナがある場合

NHK・民放5局は4Kテレビ又は4K対応テレビ+4Kチューナーで見られます。(BS258chが映ればOK) スカパー・WOWOWはアンテナの交換が必要。

BS 8K

放送はNHKBS8K 1chのみです。受信設備のほぼ全部の交換が必要ですが、20~30年後には主流になるでしょう。

ケーブルテレビ等光回線による受信

4Kテレビ又は4K対応テレビ+4Kチューナーで見られます。現在のところ一番簡単に見れる方法です。

BS放送(出典:総務省).png
4K・8K受信説明図(出典:総務省)

ケーブルテレビ(CATV)

ケーブルテレビとは有線テレビジョン放送の事を言い、CATVは英語のCommunity Antenna Television の頭文字をとってCATV(日本語訳:共同アンテナテレビ)で難視聴地区の共同アンテナのことを意味していましたが、今ではケーブル(Cable)テレビの事をCATVと言って頭文字のCの意味が変わりました。

ケーブルテレビの始まり

海外(アメリカ)

多人種(多言語・多宗教)の為多くの専用チャンネルが必要な事と、国土が広く電波で全土をカバーするには設備費が掛かり過ぎるため早くからケーブルテレビが発達し、映画・料理・歴史・科学番組など1つのことに特化した全米規模のケーブルテレビ局も多数あり、ABC・CBSなどの全米放送もケーブルテレビを頼らないと全米をカバーできません。

日本

山奥の難視聴地区でテレビが見られるよう1955年頃から村や温泉組合が共同受信用大型アンテナを建て同軸ケーブルで各戸に配信したのが始まりで、1963年に開局した受信共同組合の郡上八幡テレビが空チャンネルを利用して町内ニュースなど地域のニュースを放送したのが最初です(3年間で休止)。その後、1968年東京新宿でビル陰対策を名目に民営の日本ケーブルビジョンが開局したが在京テレビ局の再送信同意が得られず計画は頓挫、その後電電公社・NHK・新聞・電力など8団体が出資する公益法人として1970年に再スタートしました。民営による本格的なスタートは法改正後の1987年に開局した「多摩ケーブルネットワーク」と「東急ケーブルビジョン」からです(都市型CATV)。1方1957年に農村情報化(電話の普及)の遅れを懸念した農林省の主導で農業協同組合運営による有線放送電話の設置がスタート、1975年からは有線テレビ電話の調査研究が始まりました。(農村型CATV)。
したがって当初は郵政・農林両省がCATV政策を立案していました。

有線放送電話機1(立命館大学).jpg

有線放送電話機(立命館大学)

ケーブルテレビ網の拡大

通信自由化と普及

高速大容量電気通信網の構築を急ぐ政府は、1985年通信事業の主体をNTT・NHKから民間企業や地方自治体へと転換し、郵政省(現総務省)と農水省は競い合って補助金(無償50%貸付50%)を交付して地方に開局を促しました。この結果1990年頃から大手商社・外資主体のタイタス・コミュニケーションやジュピターテレコムのほか地方大手企業や市町村経営の地域局が次々に開局しました。

都市部では郵政省主導の都市型CATV、農村部では有線放送電話発展型の農村型(IP電話付)で全国をカバーしていきました。特に1995年に発売されたパソコン(Windows95)によるインターネットの普及もケーブルテレビの高速回線が家庭まで届いていたからとも言えます。

長野県にケーブルテレビ局が46局もあるのは、山間部でテレビの共同受信施設が多かったからです。

富山県の状況

通信自由化にいち早く反応した富山県では1989年民間主体の高岡ケーブル、1991年にはとなみ衛星通信とその後も小矢部市や小杉町、大門町、下村に民営や市町村営のケーブルテレビ局が次々と開局しました。八尾ケーブルテレビが電話とセットになっているのは農水省の補助金に依る農村型CATVだからです。

1996年当時、山田村ではすでに中学生1人にパソコン1台いう校内LANを構築していた。さらに、「電脳村」として過疎から脱却しようと国土庁のモデル事業として、希望する全世帯(365戸)にパソコンを無料貸付してインターネット講習会を開催しました。

その後、「税金の無駄使いの代表例」としてパソコンを前に頭を抱える老人の写真と共に週刊誌で全国に報道されましたが、8年後の2004年に早くも「家まで光」FTTH(Fiber To The Home)が完成し、パソコン・インターネット普及率日本一となりました。

この時代国は国交省まで動員して国土情報化に躍起でした。
富山県は2005年4月舟橋村のケーブルテレビのサービス開始で世帯カバー率100%となり、全国トップクラスのCATV先進県となりました。

ケーブルテレビの放送内容

有線放送は外部(空中)に信号が漏れないので、混信せずに超長波から光周波数までの全帯域を一局で利用できる。したがって原理的には1局で数百~数千チャンネルを利用できる特質があります。ケーブルテレビ局もインターネットや電話、地方防災や一般のテレビ、ラジオFM放送など100チャンネル以上利用しています。

テレビ・ラジオの再放送(難視聴地域では重要な要素)

地上波衛星放送(WOWOWやスカパーなど)FM放送を再送信している。県内で放送していないテレビ局も視聴できる利点がある。大型アンテナも使っていないため、放送の質も高い。

コミュニティチャンネル(自主放送)の活用

ケーブルテレビ局は行政主導で設立され、運営も行政が行っていました。そのため、地域行政情報(町の広報・議会・中継・防災情報など)や、町の話題やスポーツ大会・イベントなど地域に密着した報道を行っています。中には農業組合と連携して種まきから出荷まで専用チャンネルで営業指導をしている局もあり、県内のとなみ衛星通信テレビはブドウ畑の鳥獣被害防止システムの構築を進めています。

数百チャンネルの番組が視聴可能

大手CATV局と提携している地元局の場合、洋画・時代劇・競輪・食材・子供番組など専門チャンネル200以上見ることが出来ます。

インターネット・IP電話への参入による価格抑制

NTT等の間で自由競争の関係にあるため、利用料金が安く抑えられています。

ケーブルテレビと北陸電設の関わり

ケーブルテレビ事業への参入へのきっかけ

1972~73年頃オーム社発行の「CATVその理解のために:吉田進・石黒公 共著」を手にした畠山(入社1年目)が、当時は自社にとって煩わしかった十数軒レベルのビル陰対策工事がアメリカでは大規模な事業分野として成り立っていることを知り、元々無線に興味があった当人はその後ケーブルテレビの国内ニュースに関心を持ち続け、1983年に開局した有料の東急有線テレビ(現イッツ・コミュニケーションズ)の加入者が急増することに注目し、いずれは自社もかかわりたいと考えていました。

ケーブルテレビ配線工事への参入

1995年(平成7年)ケーブルテレビ富山の住宅引込工事に参加、あまりの単価の安さに他社が次々と撤退する中、将来性のある部門と考えてその後の幹線工事と共に継続、翌1996年八尾ケーブルテレビの幹線工事を昔から関係のあった弘電社より受注、再下請けに出した経験年数15年の業者の圧倒的作業スピードを目の当たりにして、やがて作業に慣れれば採算が取れると確信しました。

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「CATVその理解のために」吉田 進・石黒 公 共著

ケーブルテレビ工事部の設立

ケーブル部門を本格化するため専門の作業班を編成、高所作業車を順次リースから自前へと増車し1級無線放送技術者の資格に数名が合格して、日本CATV協会へ加入。

高額の測定器も揃えて2000年には一応の体制が整いました。その後、社外から講師を招いて光ケーブル技術を取得し、幹線設備の光ケーブル化に備えました。

2021年の今では経験豊富なベテラン作業員の他、高所作業車6台・光融着機4台など多数の測定器を保有する強力な部門となっています。

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作業を行うケーブルテレビ工事部

電化製品の歴史