家庭電化の歴史(アイロン・洗濯機・冷蔵庫編)

アイロン・洗濯機

洗った布のしわ伸ばしは平安時代から行われていました。貴族は写真の様な柄杓ひしゃくの中に炭を入れた「火熨斗ひのし」を使っていました。普通の庶民が木綿を着るようになった江戸中期以後には、写真の「こて」を温めて和裁時に使ったり、洗い張り板を使ったり、この方法は1950年代まで続いていきます。

アイロンは明治中期以後、洋装と共に入ってきたもので、一般庶民にとって大戦後の1950年代までは、背広にネクタイ姿(収入の多い人)以外には必要のない道具でした。

先に書いたように電灯は燈数契約の時代で、コンセント分の契約は金持ちのすることでした。それでも1915年(大正4年)には国産第一号が発売されています。

庶民が普通にアイロンを使うようになったのは1959年(昭和34年)、温度調節付きが発売された頃からであり、それまではズボンの筋目を付ける方法として敷布団の下に敷いて寝る寝押しが主流でした。
今ではズボンプレッサーを使うし、アイロンはスチーム付きコードレスの時代で、衣類スチーマーなどを併用されている家庭もあります。

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左:こて 右:柄杓(出典:会津民俗館)

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張り板を使い洗濯するお母さん
(出典:金沢くらしの博物館)

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炭アイロン(出典:たもつのHotBlog)

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日本初の電気アイロン(出典:東芝未来科学館)

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最新式スチーム付きコードレスアイロン

1930年頃(昭和5年)洗濯機は今の東芝から発売されるも高嶺の花でした。一般に普及するのは1955年(昭和30年)以降の高度経済成長からで、女性の社会進出の増加と共に家事時間の短縮の必要性が生じました。

共働きの高収入の家庭から普及し始め、水道の無い地方では洗濯機よりかなり高価な電動井戸ポンプを設置してまで普及しました。

1957年(昭和32年)の普及率は10%。洗濯機1台の価格22,000円は大会社の課長の月給と同額です。
洗濯はそれほど重労働だったのです。

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水道が無い時代は家ごとに井戸があり、写真の様な手押しポンプ(当時は高価)や共同の井戸で水を汲んでいました。

1960年(昭和35年)の全国水道普及率は50%です。

150ℓの水を手押しポンプで汲み上げ、バケツで洗濯機や風呂釜に運ぶのはかなりの重労働だった為電気洗濯機は電動ポンプの普及も促しました。

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日本初の電気洗濯機(出典:東芝科学博物館)

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昭和10年頃から普及した井戸ポンプ(出典:井戸ポンプ情報局)

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左:電動ポンプ 右:手押しポンプ(出典:シップスレインワールド株式会社)

電気冷蔵庫

氷が薬の時代

奈良時代(700年代)洞窟などに作った氷室(ひむろ)が起源とされています。氷は紫式部も口にし、清少納言は夏の「削り氷」を上品なものと書き残しています。

毎年7月に加賀藩前田家は飛脚を飛ばして徳川将軍に「お氷様」を献上しました。横浜に外国人居留地が出来ると食肉保存用の氷がボストンから運ばれていたが、より近くの函館から運ぶ氷業者が出現し、馬車道通りでは「かき氷」今のフラッペが誕生しました。

明治三年には高熱で床に臥す福沢諭吉のために、日本に入ってきた最初の製氷機を使い、実験室で作った日本初の人工氷が使われました。

また1800年代、米国北部の氷を輸出する「氷貿易」は大儲け出来る商売で、食肉の腐敗による疫病を防ぎ、体温を下げる氷は薬のような存在でした。

発明で一山当てると大富豪に成れる当時、何人もが研究する中で人道主義者の米人ジョン・コリー医師が、治療と公衆衛生の為に人工製氷機を作るも、既存の天然氷業者の妨害で企業化できず、貧困の中亡くなりましたがその後アンモニアを使う効率のいい製氷機が考案され、各地に広まっていきました。

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ニューヨーク市周辺の氷貿易の工程
(出典:Wikipedia)

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19世紀氷の輸出航路(北米からアジア・オセアニアへと輸出)
(出典:Wikipedia)

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第一次大戦中車から氷を下す女性たち。氷貿易最後の頃
(出典:Wikipedia)

氷冷蔵庫の時代

肉食がタブーだった江戸時代から明治政府に代わると文明開化と見做して奨励され食肉の需要が増加しました。

その時丁度良く製氷機が実用化され、1883年(明治16年)最初の製氷会社が設立され、以後1925年(昭和元年)頃には氷は業務用として全国に広まります(とは言っても庶民にはかき氷ぐらいです)。

氷で冷やす冷蔵庫を使っているのは肉屋か大きな鮮魚店で普通の小売店は魚の上に氷を並べるだけでした。

当時庶民にとって肉は贅沢品で手が届きにくく、魚は近所にやってくる魚売りから買えるため保冷の必要はなく、1955年(昭和30年)頃までは不要な物でした。ごく一部の大金持ちが写真の様な調度品とも呼べる冷蔵庫を使っていました。それでも大恐慌さなかの1930年、東芝が720円で電気冷蔵庫を発売、家一軒が建てられる価格でした。

鮮魚が少し贅沢だった時代、自転車に魚と氷を入れた木箱を積んで週2~3回やってくる行商の魚屋さんは玄関先や路地裏がお店でした。

昭和30年代でも見ることのできた風景です。

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昭和メモリーズ、町の魚売り
(提供:イラストレーション加藤佳代子)

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国産第一号冷蔵庫
1900年頃裕福な家庭で使った高級モデル。オーク材でできており水受け皿もあります。多分客間に置いたのでしょう。
(出典:Wikipedia)

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冷蔵箱
米国GE社製をモデルに開発。
容量 125ℓ / 重量 157kg
モーター 1/10馬力
(出典:東芝)

電気冷蔵庫の普及

敗戦後の10年間で経済力は戦前以上に復興し、1955年(昭和30年)からの日本は高度経済成長期に入り、庶民の暮らしは加速的に向上、家事の重労働を助ける洗濯機・一家団らん娯楽用の白黒テレビ・肉食の

普及による電気冷蔵庫の順に普及しました。「三種の神器」と呼ばれ1960年代の豊かさや憧れの象徴でした。

1960年の大卒初任給12,000円に対して冷蔵庫の価格は62,000円もしましたが、普及率は1960年で10%、1965年で50%、1976年で98%と一気に普及しました。

背景には1952年肉入り小学校給食が始まり、55年頃からの経済の急成長と米の大増産による食料事情の好転(米の配給制度が無くなった)がありました。

ちなみに終戦後の1946年の肉の消費量は1人当たり年間400gでしたが、1960年には3.5kg、2013年には30kgと増加し、量に合わせて冷蔵庫のスタイルも変わってきました。

電気冷蔵庫 機能の進化

昭和32年 マグネットドアへの改良
かくれんぼ遊びの子供が中に入って窒息死する事故が続いたため、ドアを中から開けられるようにマグネット吸着式のドアが採用されました。
昭和36年 フリーザー付き冷蔵庫発売
冷凍商品が出回り始め、約10Lの冷蔵庫をもつ1ドアタイプが登場しました。
昭和44年 2ドアタイプの普及
昭和44年 冷凍庫が独立した2ドアタイプの普及が本格化し始めました(昭和38年登場)。
昭和50年 冷蔵庫の普及率はほぼ100%に。
昭和51年 大型化・多様化
昭和51年 大型の400Lタイプの価格が下がったため、以後大型機が主流となり、4ドア・5ドア・両開き・引き出し式など多様化していきました。また、独身者用などに個人ユースの製品が登場していきました。
昭和63年 自動製氷機
冷蔵庫に自動製氷機(水を入れておくと角氷が出来る)が付いたものが発売されました。

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冷却のしくみ

気化圧縮型

圧縮を利用し、閉じたパイプの中を冷媒が循環します。ここから圧縮型と呼ばれます。
家庭用では圧縮をするために電気差動のコンプレッサを使用するのが一般的です。

そのために冷蔵庫といえば電気冷蔵庫が多いが、ガス圧を利用して圧縮する型もあります。

また、エキスパンションバルブの代わりにエジェクタを使い効率を上げた冷蔵庫もあります。(エジェクタサイクル)。

  1. コンデンサ(放熱器、凝縮器)
    冷媒は高圧ガス状態で蓄熱しており、放熱することで、液体に戻る。(液体)
  2. エキスパンションバルブ(膨張弁)
    細い管が急に太い管となることで減圧し、沸点が下がる。(液体 低圧液体)
  3. エバポレータ(蒸発器、気化器)
    沸点の下がった液体は周囲から蒸発熱を奪い、蒸発(気化)する。(気化による冷却:液体が気体となる→冷却が生じる)(この部分が冷蔵庫内に置かれる)
  4. コンプレッサー(圧縮機)
    気体の状態の冷媒は圧縮により高圧のガスとなる。(高圧気体)

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気化吸収型

冷媒の水は熱で回転するためガスバーナーか電気ヒーターを使う。
コンプレッサーが無いので静穏性が良く、医療・ホテルなどで使用される。

ペルティエ効果型(電子冷却)

電流が流れると冷えるペルティエ素子を使う。安価だが効率が低いのでペットボトル数本の個人用や車載用の他、身体冷却用にも応用されている

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ペルティエ素子

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ネッククーラー

電化製品の歴史